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芸術って何なのだろう。それを嗜む事をステータスだと思っているような人の玩具であって欲しくない。本当にそう思う。

購入した作品を受け取ってきた。

上記のような事を考えながら怒りに似た悲しみのようなものを抱え帰宅し、すぐ作品の箱を開封した。

全てがとても綺麗で、なんだか救われたような気持ちになった。水面がキラキラと光り眩しかった。油絵具が角度によってテカテカしたり、少し絵の具が盛り上がったりしているところも、全て愛おしかった。私が勝手に救われただけなのだけれど、こんな悲しい日に絵があってよかったと思った。美しいものがなければポキリと折れてしまいそうな日だった。

 

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昨日久しぶりに作品を購入した。

正直本当にお金がなかったのだけれど。(残高が3桁になってしまった。)価値あるものに相応のものを支払えると目の前が少し明るくなる。世の中がどうなっても自分にこれができる限り大丈夫であれるかもしれない。

 

もちろん買ってくれた方々にはとてもとても感謝しているけれど、作品に値段をつけて売買するのは未だに本当に不思議な事だと思う。

作品は、バラバラにすると絵の具と木と紙でしかない。でもそれを人が使うことによって価値が生まれる。そしてその価値を認める人がいる。

 

なんだろう、漠然と価値をちゃんとわかるようになりたいし生み出せるようになりたい。

絵の価値だけじゃなくて、この美しい陶器は何故美しく価値があるのかとか、この本は何故美しく価値があるのかをわかるようになりたい。

 

昨日はとても良い日だった。

けれど今日は寒い。コンビニであったかいお茶を 買って1口飲んでから握って歩く。こうしないと本当に歩けなくなりそうだ。何かを創る事、それを続ける事は恐ろしい事だ。みんなよくやってるなと思う。私もやるんだ。

 

 

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大切な事を思い出した。

一年前、この道の先に本物はないと思って心底絶望していた事を、制作の忙しさにかまけて完全に忘れてしまっていた。(その時期はだいぶ荒れており周囲に迷惑をかけていた。申し訳ない。)

 

ただ、今はそこまで悲観していない。

私の作品じゃなくて構わないから、また本物が生まれる世界になればいいのに。本物を産む人が現れたらいいのに。と思う。

 じゃないと悲しくて仕方ない。

 

モネの図録を買って本当によかった。

家に帰ったらまた見よう。

 

 

 

 

告知

「からっぽの町の月」

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大阪 中崎町
アトリエ三月 企画グループ展
SHOWCASE Vol.3「気配/sign」
庄司理子・俣野蜜・渡部真由美

10/13-10/24
平日15:00-19:00
土日祝13:00-19:00

 

 

 

昨日搬入に行ってきました。

作品、ちょこちょこといろんな展示に出してはいましたがまとめて何点か出すのは久しぶりです。全て新作。気合い入ってます。(どんな展示でも気合い入れてるけど)

最初の土日はとりあえず全日在廊予定です。その後はまだ未定。

来年三月まで大阪での展示が続きます。

 

 

つぶやき。

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なんだかいっぱいいっぱいになって「いい絵を描く!」みたいな勢いのツイートをしてしまった。ちょっと後悔しているけど嘘はついていないので消さないでおく。

 

いい絵を描けば全て良くなると漠然と思っている。それはお金が稼げてそれで生活が出来るとかそういう意味ではなくて。(お金は本当に本当に大切。でも全てではない。全てではないと言わなければならない。)踊りたいし歌いたいけど私はそんな事出来ない。だから絵を描く。いい絵を描く人になろう。寝ます。

 

絵を描く事を楽しいと感じる事はあまりないと前の記事で書いた。

ふと思った。楽しくないのになぜ描いているのか。もちろん嫌いではない。でも画面に筆を滑らせる行為自体へのワクワク感みたいなものは多分感じた事がない。それとも絵を描くのが好きと言っている人みんなこんなものなのだろうか。

考えている事が形になるなら手段はなんでもいいと思っている。私は上手く文章を書けないけれど、きっと書けるのであれば文章でもいい。音楽でも、踊りでも、何だっていいはず。

私の手段が絵であっただけ。できる事が絵だっただけ。

 

絵を描く理由ではないけれど、絵を描いている自分だけは好きでいられる気がする。しょうもない面白くないと言われることも沢山ある。けれど仮にどれだけ褒められたとしても、どれだけ時間をかけて作ったものだったとしても、納得のいかないものを絵の具で潰してもう一度一から向き合える人間で自分がある事だけは信用している。本当の美しさを考えていると信用している。というか多分自分にその信頼がない人は創作なんかしない方がいいんだ。

 

私はけして善人ではないけれど、自分の中に良心がある事を知っている。それを手がかりに絵を描いていると思う。愚痴や不満や悲しみだけで終わるものを絵にする意味はなくて、どれだけ重くて厳しいものであっても前進があるものを描きたい。明るい絵とか、楽しい絵じゃなくて。現状を判断して先を描き出す事は悲しみや苦しさだけを描く事より厳しいけれど、私はそれができるようになりたい。

 

早く来年になればいいのに。

来年になれば、今描いている大きな作品を展示できる。今は多分その為に生きている。

と思う。

 

 

。。。。。。

 

関係ないけど12月と来年3月の個展について案内的な文章が書きたいな。ふたつの展示は繋がっているけれどそれぞれ役割が違う。のでできればどっちも来て欲しい。

12月は少し実験的な展示になる。

3月の方はトークショーもするし100号以上の大作が2点もある。 

またゆっくり書こう。

 

 

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昨日は久しぶりに途中の大作に向き合った。

美しい色が出たとしても、その上からまた色を重ねる。サイズが大きくなればなるほどそれを繰り返さなければならない。私にとっての描くという事はそういう事。

作品を書いている時に楽しいとか、思った事はあまりないなぁと気がついた。私は元々小さい頃も絵を描く事が一番に好きな事ではなかった。嫌いでもなかったけれど。上手くなくても、歌ったり踊ったりする方が楽しかった。でも、今はなんか絵を描きたい。何でかわからないけど。私はこの頃これからずっと絵を描いていたいと思うようになった。

 

学校で大作を描いてる時ふと周囲を見渡した。自分と同じかそれ以上の大きな画面に向き合う同世代の人達がいた。この絵はこれからどうなるのだろう、と思った。一筆一筆こんなにも大切に描かれた、私も含めた無名の学生達の作品はどこへ流れ着くんだろう。全ての作品が残るわけじゃない。100年後どころか10年後もわからない。なんせ本当に馬鹿でかい為置く場所がなく結構パネルから紙を外して丸めたり、下手すると処分したりする人がいる。あと学校にほっておいたまま卒業すると他の人が絵の上に絵を描いちゃったり。(個人的にそれはそれであり。)

 

小さな作品は、貰ってくれた人の元で役目を終えてくれたら一番嬉しいなと思う。作家としては後の世に残す事を考えなければいけないのかもしれないけれど。いつかその人がいなくなってしまう時、作品も一緒になくなって構わない。けれど大きな作品は、どうなってしまうんだろう。悲しいとか不安とかではなくて、目の前の大きな画面が不思議でたまらなくなる。どうなってしまうかもわからない作品に、とりあえず今日も仕上げに行く。