今年の個展、来年の個展

(ほぼ自分用のまとめ)

 

個展「生まれゆく欠片たち」

今展示は2016年に制作した献花という「疲労」をテーマにした120号の作品をカッターでバラバラに解体し、一つ一つ独立した新しい意味持つ作品を展示するというコンセプトだった。

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(120号 「献花」)

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(解体した作品達)

どこかに偏りや不公平があると、それを解決する為にルールやシステムが作られる。けれどルールやシステムは完全ではないので、また新たな歪が生まれてしまう。それを繰り返す事によってだんだん重くなった歯車をみんなで一生懸命に回している。本当は止まってしまいたいけれど、本当に止めると大変な事が起きてしまう。これが「献花」のコンセプトとして私が書いていた「疲労」のイメージである。
こういった事は今に始まった事ではないが、献花を制作していた時期は個人的に社会にも私周囲の環境にもより強くそういう感覚があった。そしてそれを形にしようと考え「献花」を制作した。
ただ私はどんなテーマであれ自分が作品を展示する以上その先に繋がる道のようなものがある作品にしたいと思っていて、完成した作品はその点において消化不良なものになった。
この作品を今後展示するのであれば加筆などをする必要がある…とずっと考えていた所、今展示の開催が決まり作品を解体する事にした。


一つ一つ個人の手の内に収まるものに、それぞれに意味を与える事で大きな疲れのようなものと少しずつ向き合い再生していくようなイメージだった。
絵を裁断する時点では描く内容は全く考えておらず、自分の意図しない下地がある状態からのスタート。色の滲み、枯れた百合の交わり、それをだだひたすら眺め続け生まれてくるものをただただ描き取っていった。時には鞄にパネルを入れて持ち歩き、電車の中で考えたりもした。
こうした元々あったものに何か手を加え新しい作品にするという試みは、ここ一年で私が継続して行ってきた事だ。
日本には割れた器を金継ぎし使い続けるという技術がある。これは継いだ金の模様の美しさだけでなく、そうまでして使い続けたいという思いや、そうまでして大切にし続けられた事自体に美を見出し愛でる文化だと思う。
元々あったものに手を加え新しい形にするという行為を自覚的に続けているのも、こういった価値観にどこかで繋がっていたいという思いがあるからだ。

 

 

 

(そして、ここから来年の個展に繋がる話)

 

 

個展中、自分の作品に囲まれ続け結構精神的に疲れを感じていた。展示するに足ると思った作品以外は展示していないので展示としてのクオリティがとかそういう話ではない。(自分の中に新しい課題はあれど)おそらくずっと頭が働き続けていたからではないかという気がする。
なんとなく、自分の中にシンプルな言葉が見つかった。美を作りたい。と私は思っている。美しい絵画でも彫刻でも文章でもなく。
美という概念は長い歴史の中で様々な人が様々な角度から検証し続けているものだ。賢い人たちが言うところの美は私にはわからない。でも、本当の美を考えたいし、あると信じたいと思う。多分この世界に思っているほど美しいものはない。世界は美しい形をして私たちを待っていない。ただ、幼稚かもしれないけれど割れた器を金で継いでまで使い続けたいと願った事が確かにあるように、至高の一瞬はあるんじゃないか。割れた器を継いだ事実を愛でる心は、今ある漠然とした大きな疲れを癒すものになり得るのではないか。生きる上で何か問題があったとしても、綺麗に解消してしまえる事は少ない。この世界に魔法はないから、全てを平らにする事は出来ない。裏と表が、白と黒が、悲しみと喜びがどちらも存在する事と向き合う事、矛盾した2つの妥協ではない折り合いを堅実につけること。美しいものがない世界に、至高の一瞬が存在する事。駄目になってしまったものを愛し続ける事になにかを見出す人がいる事。こんな事を言ってはいても、まだまだそんな事ができるほど私は大人ではないけれど。一瞬現れたその何かを、美であると信じる事・・・なのだろうか。でもそれが私が作った欠片だったんじゃないかと思う。無暗な優しさや明るさではなく、堅実に進むことが出来る方法を探したいと思う。

 

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